「リア充オタク」から考えた「オタクだ」「好きだ」ということの難しさ
「リア充オタク」への嫌悪感から考えた【好き】は難しい論
30秒で分かる、この記事の論旨
- そもそも、どちらの方が「好き」かということは客観的には不毛な議論である
- ここで「簡単に好きと言うな」と主張したい訳でなく、このように思う人もいるという話をする
- 知識・経験が相対的に少ないのに簡単に「オタク」「好き」であるというのは嫌悪感を抱かれる傾向にある
- 「好き」よりも「興味がある」と表現した方が良いのではないか
長くなりそうだったので、まとめた。以下から今の考えや感じたことを書いてみたい。
「どちらが好きか」論は客観的には不毛である
「椎名林檎をどちらが好きか」議論
ここからは、私の体験を書く。2014年のはじめ、中央線に乗っていると20代前半のように見える女性2人が、議論をしていたのを聞いた。議題は「どちらの方が、椎名林檎を好きか」であった。
二人とも、笑いながらではあったが真剣に話していて、その前に立っていた私は興味深く聞いていた。
「歴史」を愛する古参と、「今」を愛する新参
片方の方(古参)は、幸福論(デビュー当時)から好きだったといい、もう一方の方は東京事変(新参)以後にファンになったと言っていた。便宜的に古参と新参に分けて記載する(貶めようなどの意図はない)。
主張としては、古参はデビュー・妊娠・バンド結成と古くから経時的な変化を受け入れていて、もちろん今の椎名林檎も好きであるが、主張やメッセージの変化の歴史を愛しているという主張であった。
一方の新参は、現在の曲・インタビュー等の収集・読み込みを非常にしているといい、古参よりもバンドメンバーとの関係性や今主張されているメッセージを読み込んでいるとの主張であった。
古参としては、歴史的な心情やメッセージの変化も含めて、文脈としてみなければ新曲の意味などは分からないと主張しており、一方の新参は現在の心情や盛り上がりを過去と対比させて見るのはやめて欲しい、昔からライブに行っていて知っているからと言ってすべて分かっている訳ではないだろう、直近のファン活動は自分の方が多いと主張していた。
面白い話を聞いたなと思った。どちらも好きなのには変わりなく、歴史的な変化や曲も深く読み込める点において「椎名林檎」のコンテンツは深いんだなーという感想と、どちらが好きか論は客観的に聞いていると非常に不毛だなと思った。
椎名林檎が分かりにくかったら、「はてなブログ」や「ニコニコ」等に置き換えられるだろう。
自分でもやっていた「俺の方が好き・オタクだ」
以前、会社の飲み会で後輩から「小説が好きなんですけど、オススメの小説はありますか?」と聞かれたことがある。自分が仕事をちゃんとしないで本を読んでいたのがバレてしまっていたのかと、背筋が凍る思いをしながら、最近読んで面白かった本は?と尋ねると「アルジャーノンに花束を」と答えがきた。
うわー。これ、薦めるの難しいやつだ。と思いながら「梅佳代」と答え、その場を凌いだ。もちろん、梅佳代好きだけどね。
この飲み会の後に、渋谷直角の漫画を読んでいて気がついた。「俺、どちらか好きか論は不毛だとか思いながら、すごいしてる」
あるものに対するどちらが好きかのマウンティングというのか、このステージまでは来てないなという考えとか、そこ通ったわーそっからどう行くかが道を決めるんだよなー。とか日常的に思っていた。
つまり、自分が日常的に好んでいるカテゴリーに対して「好き」と言ってくる人に対しては、自分自身厳しく見ていることに気がついた。他の人同士では不毛に見えるのに。
自分自身もなぜ、そのようなように思うのかについて、考えていることをここからはまとめてみたい。
なぜ、簡単に「好き」という人に対して嫌悪感を抱くのか
新たに提唱された「リア充オタク」への嫌悪感
新たに提唱されている「リア充オタク」への反応があった。そもそも、このリア充オタクという定義のむかつきとか、また広告代理店による若者の定義付けかよとか、は置いておいて、このリア充オタクという言葉に「それはオタクではない」や、「オタクである私の方がお金を遣っている」などの反応がTwitter等でよく見られた。
もちろんすべてのユーザーがこのような反応ではなく、「リア充オタクって、そもそもオタクじゃないだろ」等の反応も多かったが。
(参考:日テレ「ZIP!」で「リア充オタク」特集 「それはオタクじゃない」など議論に (ねとらぼ) - Yahoo!ニュース)
「リア充オタク」へは、詳しくないのに(お金をそこまで払っていないのに)オタクと名乗るなといった反応が多く見受けられた。
なぜリア充オタクは嫌われるのか?
リア充オタクが気になって、岡田斗司夫のニコ生に原田曜平が出ていたのをみた。岡田斗司夫が原田曜平のファンだと言っていて、ああ。と思った。
マイルドヤンキーやリア充オタクなど、コンサルの為にカテゴライズするのは、もういいんじゃないかと思うんじゃないかと思うが、
自身のカテゴライズ・ステータスの付属の為に「好き」だというのは、純粋に「好き」な人からはむかつかれやすいのかと感じた。あとは、場を荒らすな等の話もあるだろう。
「東京ポッド許可局」での「好きの程度論」
「簡単に好き」って言う人に対して、自分もなぜ嫌悪感を抱いてしまうのかを考えていて、もしかしたらこのようなことかもと思った。
東京ポッド許可局の2015年9月20日の②の16分ごろから「好きの程度論」についての話題が出ていた。
放送は5年前のものの、再放送であるが要点としては、
- 落語が好きな人がいるという話を聞いて、話を出来るかもと思い、落語への造詣が深いサンキュータツオ氏が会いに行った
- 会った人は数ヶ月だけしか落語を聞いたことのない人であった
- ジャンルそのものを好きというのは数回では言えないのではないか
- そんなに簡単に「好き」と言っていいのだろうか
- 自分だったら「好き」ではなく「興味がある」というだろう
要点を記載したので、正確な文脈を伝えきれていない。是非Podcastを聞いて欲しい。他の放送も面白い。
この放送を聞いて、自分の好きなものへ「好き」という人に対しては、「期待感」のようなものを持ってしまい、造詣が浅かった場合はその失望感も加味されて「嫌悪感」を抱くのではと考えた。
まとめ:「リア充オタク」等に対する嫌悪感と対策
何かに対する興味が出た場合の表現方法として、「好き」「オタク」だと言うことへの古参ファンの嫌悪感と、新参の対策についてまとめてみたい。
- 客観的に見ると、どちらが好きか論は不毛なことが多い
- 同族かもという「期待感」が裏切られると「嫌悪感」に転移するのではないか
- カテゴライズやステータスを目的として「好き」「オタク」というのは反感を得やすい
- 文脈を理解していないと、そのカテゴリーを荒らす行為をしてしまう人がいて、反感を買う
- 「好き」の前に「興味がある」を使った方が受け入れられるのではないか
最近考えていることを記載し。まだまだ考えが固まった訳ではないので、批判・ご意見等があれば考えるタネとして頂ければすごく嬉しい。